デビッド・ボームの流動運動する分割不可能な全体性


 Эデビッド・ボームの流動運動する分割不可能な全体性
 物質と時間と空間が分かちがたいだけでなく、その光景を見ている観測者も世界の一部にくみこまれていると見る。ボームはこのことを「流動運動する分割不可能な全体性」とよんだ。
 ボームは部分と全体を分けたくない。断片的記述と世界的記述を分けたくなかったのだ。ボームにとっては断片化は世界観を中断し、ときには固定化するものなのである。だから部分と全体を分けたくない。分けたくないだけではなくて、そのあいだに間断なき「流動」(flowing)があると見て、この流動は物質の運動であって、時間の流れであって、空間の継続でもあるとする。
 もともとボームはボーアのコペンハーゲン解釈に疑問をもっていた量子力学者だ。 物質が「宇宙→天体→気象→物体→分子→原子→原子核→粒子→素粒子 →‥」というふうに、どこまでも分割されて"質的無限性"をもつことにも疑問をもっていた。

 ※「波」と「粒子」の性質については、私たちの常識とはかけ離れている為、現代物理学の中でもいったいこの「波」が何を表しているのかという点に関して解釈の仕方が分かれている。世に言うところの「波動性」と「粒子性」の二重性の問題。もっとも主流な解釈は、この波を確率の波と考えるもので、この確率の波が強めあうところには粒子が到達しやすく、波が弱めあうところには粒子が到達し にくいと解釈するもの。この解釈はコペンハーゲン解釈とよばれ、デンマークコペンハーゲンに集結していたニールス・ボーアに代表される高名な物理学者達によって構築された思想。

 その姿勢の根底には、物質の正体を「流動運動する分割不可能な全体性」として考えたいという見方がある。この見方はボームに一貫している。デビッド・ボームは量子力学コペンハーゲン解釈に対抗する解釈方法として、ホログラフィックパラダイム理論を提唱した。
 ホログラフィックパラダイム理論では、この宇宙には、「内蔵秩序」と「顕前秩序」とよばれる二つの秩序が存在し、「顕前秩序」の全ての物質、空間そして時間が「内蔵秩序」に包み込まれているというもの。デビッド・ボームはこれをホログラフィーに喩えて説明しています。ホログラフィーとは、写真乾板上に一見不規則な干渉縞が記録されているもので、これにレーザー光線を当ててみると、被写体の立体構造が浮かび上がってくるというものです。しかも、この写真乾板を一部分引きちぎって、それにレーザー光線を当ててみても、被写体の一部ではなく全体像がしっかりと浮かび上がってくるというもの。つまり、ホログラフィーの部分部分にそれぞれ、被写体の全体構造が包み込まれています。ホログラフィックパラダイム理論とは、ホログラフィーの被写体を「顕前秩序」、乾板上の干渉縞を「内蔵秩序」に置き換えたものがこの宇宙だとするもの。

 素粒子は、そもそも「宇宙の全体的な場の運動における相対的に不変な形式」というものである。だから「素粒子は相互作用している」のではなくて、「素粒子は互いに混じり合って相互浸透している継続的な運動である」と言ったほうがまだしも正確なのだ。もうすこし厳密にいえば、「素粒子は互いに混じり合って‥‥継続的な運動で‥‥そのような運動を見ている観測者にとってもそう見えるもの」と。が、こんなことでは理科の言葉を厳密につなげようとして、いたずらに複雑でまわりくどい表現を強いることになる。ボームは物質の運動の全体と主客を分けないで「流動」として捉えたい。それならそのような「流動」をあらわす言葉の様式があればいいはずだと。
 ボームは量子力学をもっと充実して語ろうとしているうちに、物質と意識の分断できない関係を記述することこそが重要で、そのためには何をすればいいのかというほうへ問題を発展させていったのだった。物質と意識の分断できない関係を記述するとは、ハイゼンベルク不確定性原理や観測の理論が要請する「観察者を含んだ物質の運動の全体性」を記述するということにあたる。
ここに一個の種子があるとして、これを土に撒いたときに、科学者はこの種子がもつ将来的全体像をどのように語ればいいのか。物理学というものはラプラスの魔をこえて、1個の粒子の過去・現在・未来を次々に記述できるようにすることを目標にしてきた。また、それがニュートン力学において果たせると確認してきた。しかし量子力学相対性理論はこれをゆさぶって壊してしまったのである。
 1個の種子を前にしたときも同じである。科学者はおそらく、種子には包みこまれたインプリケート・オーダーがあり、それがやがて枝を伸ばし葉を繁らせてエクスプリケート・オーダーになっていくと説明するしかないのではないか。そのことを連続的に表現できる一連の数式と一連の言葉を用意するしかないのではないか。だとしたらそれにとりくむべきである。これがボームの立場なのだ
 たとえばテレビの電波は空気中ではインプリケート・オーダーとして伝播して、受像機で"unfolded"されてエクスプリケート・オーダーになる。コンピュータのデジタル信号も、脳における電気化学信号システムもおおむねそうなっている。ボームはもっと適切なメタファーとしてホログラフィを選んだ。レーザーによる結像ホログラムにはまったく明示的な像がなく、その情報のいっさいが隠されているのだが、そこにふたたびコヒーレントなレーザーが照射されることによって、それまで包みこまれていた情報が巻き上がってホログラフィとして顕在してくるという例だ。このようなメタファーをボームが選んだため、ボームの内蔵秩序論はしばしばホログラフィック・パラダイムとよばる。
 もっとわかやすくボームの考え方を圧縮すれば、ボームは、電子とか素粒子とかと名付けているものは、インプリケート・オーダーエクスプリケート・オーダーの交点の産物だと言いたいのである。量子力学が証かしたことはそのことだったと言いたいのだ。
 ボーム自身はこう書いた、「量子の文脈では、われわれに知覚できる世界の諸相を支配する秩序は、さらに包括的なインプリケート・オーダーから生じるものでなければならない」。そしてすぐに、こう付け加えた、「そのインプリケート・オーダーのなかではあらゆる現象を定義してはいけないのである」と。インプリケート・オーダーはそれ自身において自律的に情報を編集している自己編集体そのものなのだということだろう。そして、その自己編集体から何かを"explicit"に取り出そうとしたとたん、それはインプリケート・オーダーではなくてエクスプリケート・オーダーになるということなのだ。
 
Ф参考資料

 〇『全体性と内部秩序』

全体性と内蔵秩序

全体性と内蔵秩序

『現代物理学における因果性と偶然性』(東京図書)
現代物理学における因果性と偶然性 (1969年) (科学技術選書)

現代物理学における因果性と偶然性 (1969年) (科学技術選書)

〇『断片と全体』(工作舎
断片と全体

断片と全体

〇テッド・バスティン編『量子力学は越えられるか』(東京図書)
量子力学は越えられるか (1973年)

量子力学は越えられるか (1973年)

〇『波と粒子』(ダイヤモンド社
波と粒子―量子力学のジレンマ (1979年) (サイエンスブックス)

波と粒子―量子力学のジレンマ (1979年) (サイエンスブックス)

ケン・ウィルバー編『空像としての世界』(青土社
空像としての世界―ホログラフィのパラダイム (1983年)

空像としての世界―ホログラフィのパラダイム (1983年)

〇『量子力学と意識の役割』
量子力学と意識の役割 (科学と意識シリーズ (1))

量子力学と意識の役割 (科学と意識シリーズ (1))


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